大山崎の繁栄

 山城の国・大山崎の地は,古くから天然の要害として知られ,水 陸交通の拠点として知られていた。 山城と摂津の国境の地で,町は両国にまたがっていた。地形的には,天王山と男山丘陵に挟まれた 谷間にある。延暦13年(794年),平安京の開都により,大山崎は,西日本より京に入る玄関口と なり,重要性が高まった。水路では,宇治川,木津川,淀川の合流点付近の港として栄え,陸路 では,山陽道の宿駅であり,江戸時代には参勤交代の大名は京へ寄らずにこの地を通った。
 大山崎離宮八幡宮の歴史は,清和天皇の代,貞観元年(859年)に発する。伝承によれば, 大和の国大安寺の行教和尚が,豊前の国字佳人幡宮に参籠中,八幡棟が姿を現された。 その神託により,同年8月23日,山崎の地に,八幡様を 分霊遷座した。これが大山崎離宮八幡宮の発祥とされる。 離宮という名称は,遷宮に先立つ桓武天皇(在位781〜806年)・嵯峨天皇(同809〜823年)の 時代天皇が行幸の折りにしばしば行宮として立ち寄り,山崎離宮,あるいは中国風に 河陽宮と呼ばれたことに発する。その後行宮としては使われなくなったが, 離宮の名称は残った。
伝によれば,遷座と同時に,大山崎の社司が,新しい道具, 長木(ちょうぎ)による搾油を開始した。また,原料は,その頃広まりつつあった 荏胡麻を栽培した。荏胡麻は,胡麻とは類縁関係にないシソ科の一年生植物で, 搾油が始まったのはこの頃だが,食用としては,古代から利用されていた。 この油は,大山崎の灯明の他,宮中にも献上された。朝廷は,その功績を貧して, 社司に「油司」の宣旨を賜った。それ以来,神社仏閣の灯明の油は,全て大山崎が納めることとなった。
 その後、諸国でもこれに倣い、長木による荏胡麻の搾油が拡がっていった。
そこで朝廷では,論旨・院宣を発し,大山崎の社司を,特に「荏胡麻製油の長」と認定し,独占権を認めた。 また,大山崎を「荏胡麻製油家の元祖」として,諸国の関所や渡し場を自由に通行できるようにし,課益を免除した。
 天正年間(1573〜1592年)には,豊臣秀吉による京都大仏の建立があった。太閤政権は,大仏殿の門前に長木を立てさせ, 大山崎に油座を許可し,灯明油を献上させた。慶長3年(1598年),秀吉が没すると, 豊臣秀頼は,豊国廟を建立,諸侯から献上された56基の石灯籠の灯明油を,大山崎の油座に命じて 納めさせた。この時大仏殿の傍らに与えられた土地に下司を置き,灯明油の献上を続けることと なった。その後,豊国廟が荒廃し,石灯籠の数が減っても,灯明は灯され続けた。
 離宮八幡宮における最も重要な例祭が,日使頭祭である。その最も古い記録は, 「明月記」の承元元年(1207年)四月三白の条に見出される。祭儀は八幡宮山崎離宮より男山 に遷幸の儀式を型取ったもので,勅使参向の儀式祭礼を日使頭祭と称する。日使頭を勤める人を 日の長者という。初めは神職が勤めていたが,後には八幡宮の油座の印券を帯びて柚の商売を なす者から,福裕の人を選んで指定するのが恒例となった。日使頭人は,天皇の前をも騎乗のまま通ることが許された。日使頭祭は江戸時代には稀となり,維新後は行われなかったが,戦後, 崇敬会によって復活した。油祖離宮八幡宮崇敬会は,昭和61年,坂口幸雄氏(日清製油渇長) を発起人代表とする業界有志の人々により設立された。崇敬会による日使頭祭は,今日まで連綿と続いている。