大山崎の神人(じにん)

 大山崎には,「判紙の会合」と呼ばれる,秘密の神事が存在していた。毎年12月13日, 大山崎の社司らが廟に参拝し,社座を開き,油売りに古式に倣って許可状と印券を与える。 油を売る行為が,営利目的だけではなく,神様に奉仕する活動の一部を構成していたことがわかる。
 この時代,大山崎は,全国の油売りの元締めとしての地位を守っていた。諸国から集まった 油売りも,みな大山崎の免許状を受け,印券(許可証)を持って,諸国の港や渡し場 を通行した。港を守る武士も,これを妨げことはできなかった。大山崎の印券を持っている以上,彼らはただの商人ではなく,聖域の住人だからである。所によっては,灯明の渡 しという地名も生まれた。鎌倉幕府が室町幕府に変わっても,大山崎を尊重する方針は変わらなかった。
 様々な職業を歌で表した『職人歌合』には,“よひごとに都へいづる油うりふけてのみ見る 山崎の月” とあり,山崎の油売りの非常に多忙な様子が偲ばれる。
 大山崎は,搾油と販売の独占権を認められていた。それは実効を伴うのであり,もし秘密に 搾油を行う ものがあれば,大山崎の神人が出向きたちまち搾油の道具をたたき壊したという。
 離宮八幡宮に残る最古の文献である貞応元年(1222年)12月の美濃国司の下文によると, 油や雑物 の交易のため,不破関の関料免除の特権を保持し,不破関を越えて,遠く美濃尾張まで行商の旅に出ていた。また,旧社家・疋田種信氏所蔵写本中にある覚書元年(1229年)12月28日付の六波羅探題御教書によれば,既にこの頃,大山崎は播磨国で専売の特権を有し ,翌寛喜2年の御教書では,肥後国まで範囲を拡げていることがわかる。
 応長元年(1311年)には,神人の訴えによって,後嵯峨院の院宣が下り,荏胡麻と油の販売 独占を保証された。正和3年(1314年)には,六波羅の下知状によって,荏胡麻の運送に関して,淀河尻,神崎,渡辺,兵庫等の関料を免除された。その後,南北朝から室町時代にかけて,大山崎商人の活躍はますます目覚ましいものとなっていった。文安3年(1446年)に 室町幕府が下した兵庫開制札の中では,山崎神人の買い入れた荏胡麻の運送は,「山崎胡麻船 」 として,大神宮船等とともに,関料の免除が保証されている。室町幕府においては,歴代の将軍が御教書を下して,大山崎の権益を保証している。
 後代になると,山崎神人は,直凍の行商に留まらず,諸国の油商人への卸売りをも行っていた。 八幡宮の古文書の内,「日頭年中度々令勤仕分」と裏端書のある文書には, ”文安二年四月三日 三条タカツトイヤ”とある。日使頭役勤仕としての油座商人の問屋(といや)である。問屋の誕生については後に述べる。
 また需要の多い京では,山崎神人が居住して店舗を構え,定住の油売商として営業していた。
 大山崎は独占企業として財を成し,同時に諸国を自由に往来できることから, 自然に多くの 情報が集まった。そこで,野心的で優秀な人材が集まることになる。美濃の戦国大名,斎藤道三 もその一人であった。道三は,油の行商人として全国を渡り歩き,その時に得た知識や経験が後々役に立ったという。司馬遼太郎の「国盗り物語」では,道三は大道芸めいた販売方法で成績を伸ばし,山崎屋という油問屋の主人に収まり,これを国盗りへの足掛かりとしていく。
 もちろん,このような大山崎の油の生産と販売の独占に対しては,多くの対抗勢力があった。 既に鎌倉時代には,播磨,丹波等における神人の独占販売に対して,土着商人の激しい反対運動があったとの記録が残されている。
 摂津国遠里小野では,住吉神社を中心として早くから油商人が台頭し,しばしば山崎神人と 対立していた。嘉慶2年(1388年)には,和泉,摂津の商人が「住吉神社御油神人」と称して油木を立て,荏胡麻油を販売しているのを大山崎神人が訴え,営業を停止させている。 
大山崎神人の活躍は,鎌倉時代初期から室町時代まで約200年にわたって全盛を究めた。しかしながら, 応仁の乱(1467〜1477年)が起こると,京は戦火に包まれ,山崎の地も荒廃して,往年の勢力は失われた。 さらに天下統一の過程で楽市楽座の波に呑み込まれ,大山崎の繁栄は 終焉を迎えるが,大山崎の名前は,今日に至るまで,歴史と伝統の象徴として残っている。「判紙の会合」は,文化年間(1804〜1818年) 頃まで続いた。その流れを汲むのが,大阪,東京をはじめ,各地に残る山崎講である。