問丸

 中世には,水上交通の要所に問丸(といまる)という組織が置かれていた。そのルーツは, 平安時代,荘園の津頭に設けられた問・問所(津屋とも称する)にある。特定の領主に奉仕する運送補助の担当部署である。交通の要地に当たる港では,大量の米が集まり,よその領主から 輸送管理を依頼されるケースが多かった。ここに,問料で生活する専門業者「問丸」が出現した。 問丸の仕事として確認されているものとしては,水上交通への労力の提供や,年貢米の輸送とそれに伴う陸揚げ作業の統括,港湾税の徴収,馬借・廻船の管理などがあり,この他に倉庫業があった。さらに時が経つと,委託を受けて保管の農産物を売り,貨幣に代える仕事が加わった。室町時代には,20数港に問丸が在したといわれる。
 中世も後半に至ると,問丸は,米以外の商品の流通,宿屋などへと手を広げ,不特定多数の 行商人の営業拠点,代理店としての役割を担っていく。例えば,近江商人は,美濃の商人から紙を買う時,中間地点の桑名の問丸を利用したという。
 中世末期になると,問丸は運送・販売機能よりも卸売機能が中心となり,扱う商品が細分化 していった。運送中心の問丸は,宿駅の伝馬問丸として発達した。資料に残る最も古い特定商品を 扱う問丸は,明徳2年(1391年)の大坂・淀の魚市問丸である。その後,紙問丸,材木問丸などが現れた。
 油問丸も,早い時期に存在していた。文応2年(1261年)の摂津国勝尾寺の文書には,同寺に 付属する油問丸があったことが記されている。その後,観応2年(1351年)の東大寺関係の文書には, 東大寺の油倉の管理を,ある時は符坂の油座が引き受け, ある時は淀の油問丸が引き受けていたと取れる記述がある。 
 関所は本来,公権力が,港や道を整備す為ために,必要な費用を徴収するための機関であった。すなわち,今日の高速道路の通行料と同じ発想である。しかし交通量が増えて関銭の徴収が大き な利益を生み出すことがわかり,設置者が儲けを意識するようになると,交通の要所以外にも関所 が設けられるようになり,通行者の負担が増加した。また,寺社が管理する関も多かった。東大寺の油倉は,兵庫の南関を支配していた。徴収した関料によって港湾の整備を行い,残りは徴収代行料として,東大寺の収入となった。
 商業の全国ネットワークは,天下統一とともに張り巡らされた。織田信長は,関所を撤廃し, 楽市楽座の制を,性急に押し進めた。昔の為政者にとっては,何であれ利益を独占する特権集団は,明確に敵である。楽市楽座とは,主として,市場税の免除(楽市)と,専売座席,すなわち市座の撤廃(楽座)を指す。つまり,一部の商人の特権を排して,外部からの新たな参入を容易にし,商業規模を拡大することを意図していた。信長の政策が市場を本格的に動かし始めたのは,天正5年(1577年),安土城を構えた際,城下を楽市としてからである。 楽市楽座は,まず特定の地域で楽市を実施し,その後,複数の市場にまたがる座の特権を停止するという順番で行われた。この時,問丸も大きな制限を加えられた。運送から港湾税の徴収までを取り仕切る問丸は, 信長にとっては,座と同じく,全国経済の円滑な発展を阻害する邪魔者であった。問丸は運送と物資の 調達のみを認められ,他の業務は禁じられた。そのため,それぞれ一つの業務に特化していった。
 楽市楽座にあっては,大山崎の油座の特権も,ついに廃止された。信長の死後,豊臣秀吉は,一時大山崎の油座の復権を認めたが,時代の流れは変わらず,天正12年(1584年)11月10日付けの安堵状を最後に,大山崎油座は,文献上から完全に姿を消した。その他諸々の座も,破却を命じられた。そして徳川家康は,江戸,大坂は元より,幕府の主な直轄地すべてで,座の結成を完全に禁止した。