廻船問屋との対立

 幕府によって拡大・公認された十組問屋だが,享保期には,既に分裂劇が始まっていた。きっかけをつくったのは,先述の十組問屋の役割分担の中の,船の吃水線を調べて焼印を押す三極印元の人々であった。三極印元は,表極印,櫃極印,島極印の三派に分かれていた。このうち島極印は油問屋の河岸組と綿店組から成り,独自の動きをするようになっていった。最初は享保4年,島極印が,表極印,櫃極印の管轄する廻船に荷物を積まないことを決め,対立が起きた。河岸組,綿店組以外の八組は,島極印の廻船に荷を積まない申し合わせをしたが,大坂の船問屋から,十組一体でいてほしいとの申し入れがあり,他の七組ほど強硬ではない酒店組の仲裁もあって,2年後には元の鞘に収まった。
 しかしその後も島極印は他派と距離を置き,これまで菱垣廻船に積んでいた荷物を,運賃の安い摂津国西之宮船に積むようになった。これを「洩積(もれづみ)」という。このため収入の減った大坂の菱垣廻船問屋は,享保14年(1729年),十組問屋に対し,洩積の差し止めを申し入れた。十組と島極印の交渉の結果,運賃の大幅引き下げを条件に,菱垣廻船への復帰を了承した。翌年から,菱垣廻船の中に「仮印」という焼印を押した仮船が就航を始めた。仮船方は,新組と呼ばれた。運賃が安いので,次第に参加する問屋が増えたが,古組は一本化を要求した。元文5年(1740年),綿店問屋は古組に復帰した。孤立した河岸組(油問屋)は,大坂廻船問屋に対し,新組の荷は古組の廻船には積まないと通告したので,大坂廻船問屋と新組の提携が成立した。かくして新組の勢力が優位となり,古組に加入できなかった問屋仲間が次々に加わって,18世紀後半には,十三組に拡大した。明和4年(1767年)の「十組定法記」にある古組と新組の内訳は以下の通り。

古組 綿店組・紙店組・塗物店組・釘店組・表店組・薬種店組・内店組・通町組・茅町組(内店組下組〉・丸合組(通町組下組)
新組 河岸組・綿店組・鉄店組・紙店組・堀留組・薬種店組・新堀組・住吉講・油仕入方・糠仲間・三番組・焼物店組・乾物店組

 新組の勢力拡張に伴い,綿店組の一部が再び新組に戻ったことがわかる。以上の動きは,油問屋が確実にカを付けてきたことを示している。
 もう一つ,文化年間(1804〜1818年)まで続いた大きな動きがあった。下組の結成である。今で言う,系列店の組み込みである。新組の中軸を成す河岸組(油問屋中心)の下には,乾物店組,瀬戸物店組,糠仲間の三組が付いた。これは,中小問屋の台頭を,十組の系列の下に取り込むことで統制しようと図ったもので,幕府と大手問屋の利害が一致したことで,次々に実現していった。幕府と問屋仲間の良好な関係は,まだしばしは続く。
 享保期には,かつて小早と呼ばれていた伝法船が,樽廻船として大きな勢力を持つに至っていた。そして享保15年(1730年),酒店組が十組問屋を脱退し,酒樽荷物の樽廻船一方積みが宣言された。従来問屋毎に仕立てられていた菱垣廻船と樽廻船の間で積み荷協定ができ,菱垣廻船は酒荷以外を,樽廻船は酒樽を積むことが取り決められたのである。酒店組が十組問屋を脱退した背景には,酒荷と他の荷物との性格の違いがあった。他の菱垣廻船の積み荷は十組問屋の仕入れ荷物だったが,酒荷は造り酒屋の送り荷物であった。すなわち,事故の際の責があるのは酒屋側であり,共同補償組織である十組問屋に酒店が入っているのは元々不自然であった。酒のみを積んで航行することで樽廻船は速度が向上し,品質劣化の心配が減り,海難の確率も減った。
 こうなると樽廻船は安全で速いと評判になり,酒以外の輸送の依頼が舞い込み,再び混載で航行するようになった。その結果,菱垣廻船と樽廻船が仕事を奪い合うこととなった。安永元年(1772年),大坂の樽廻船問屋8軒と西宮の樽廻船問屋6軒が問屋株を公認され,翌安永2年には,菱垣廻船問屋9軒が問屋株を公認された。双方の公認を契機として,改めて積み荷協定が結ばれ,分担が決まったが,その後も樽廻船の方が需要が多く,協定はなし崩しとなった。
 そのため菱垣廻船は減少の一途を辿り,文化5年(1808年)には38艘にまで落ち込んだのである。この38艘も老朽化のため海難事故が相次ぎ,天明4年(1784年)から享和3年(1803年)までの19年間の損害は,合計35万8,080両余という巨額に達した。文化5年(1808年),実力者として知られる杉本茂十郎が十組問屋の頭取に就任すると,菱垣廻船の再興策が採られた。幕府の保護の下,十組問屋以外の問屋も菱垣廻船を利用する政策が推進された。その結果,翌文化5年には,菱垣廻船の数は新船53艘,修理船27艘の計80艘と大きく回復した。さらに杉本は,新たな金融機関である三橋会所(永代橋,新大橋,大川橋[吾妻橋])を設立して,十組問屋そのものの基盤を強化した。しかし文政2年(1819年),杉本茂十郎が失脚すると,十組問屋の勢力が衰え,樽廻船側は,この機を逃さず菱垣廻船の領分に進出した。そして文政8年(1825年)には,菱垣廻船は,再び27艘にまで減っていたのである。菱垣廻船問屋は,その後も回復に向けてあらゆる手を打ったが,ついに勢いを取り戻すことはなかった。
 天保12年(1889年),幕府は株仲間解散令を公布した。菱垣廻船問屋仲間と樽廻船問屋仲間も解散となり,積み荷協定も正式に撤廃された。これで完全な自由競争の時代となり,競争力のある樽廻船が菱垣廻船を圧倒した。嘉永4年(1851年)には株仲間が再興されたが,もはや流れが変わることはなかった。
 幕末に至ると,西洋型帆船と蒸気船が出現して,従来の和船の地位を脅かした。慶応2年(1866年),民間による西洋型帆船の運航が始まった。翌慶応3年(1867年)には,大坂・江戸間で蒸気船の運航が始まり,荷物と旅客を運んだ。これらは幕府と諸藩の払い下げ船であったが,明治7年(1874年)には,大阪と東京の蝋問屋の協力により,民間初の西洋型帆走船が建造され,就航した。速力で圧倒的に勝る新型船の営業により,廻船はその使命を終えたのであった。