株仲間の発展

 株には,社会制度的な株と,商業上の株の2種類があった。前者には,御家人株,郷土株,名主株などがあった。これらの株も,金銭によって売買されていた。
 商人の株には,幕府によって制限された,自由に数を増やせない株と,長年の取り引きによって発生する契約上の優先権のような,自由につくれる株とがあった。十組問屋に属する個々の店の株などは,制限される方に属する。
 これらの株を有する同業者同士が団体を結成し,かつそれが幕府の認可を受けた時に,その団体は株仲間と呼ばれた。株仲間の中では,問屋の株仲間が最も多かったが,両替屋や,水車による油絞屋なども,株仲間をつくっていた。株仲間の株には,御免株と願株の二通りがあった。御免株とは,幕府の方から,員数を指定して認可したもので,十組問屋もこれに当たる。対する願株は,当事者からの申請によって認可されたものである。当初は御免株が主流だったが,次第に願株中心へと移行していった。
 仲間は,初めは人偏のない「中間」の文字を使うのが普通であった。「中」は「同中」の意で,村中・惣中・講中などの中と同じく,差別のない全体の概念を有し,これに交際関係を意味する間が結びついたものである。
 十組問屋の公認・強化に先駆けること3年の享保6年(1721年)11月,幕府は,江戸市中のあらゆる商人・職人に,仲間を積極的に結成することを促す法令を発した。この時点では,幕府の主眼は,まだ商業の保護にあったとみられる。すなわち,まだ江戸時代後半と比べれば商品の流通量が少なく,需要範囲も狭かった。徒らに新規参入の商人が増えれば,過当競争で共倒れになり,その業種がつぶれる。数を制限し,先行者を保護することで発展を期そうという考え方である。しかし大岡越前も解任され,より時代が下ると,幕府は願株による株仲間の認可を乱発していく。その目的は,冥加金による収入増にあった。以前からの仲間に対しても冥加金が制度化された。
 冥加金は,各仲間毎に金額が決まっていて,初年金は入会金の意味合いがあるので多額だった。仲間内の集金は,月々集める方法と,上納の時に集める方法とがあった。分担金を払わない者は,株を仲間に取り上げられ,預かり株,明き株(空き株)とされ,分担金は他の仲間に割り増しされた。
 冥加金は,営業税というべきものだが,課税単位が,個々の営業人ではなく,株仲間単位だった点に特徴がある。冥加金は,建て前上は,株仲間が公儀による特権の保護を恩義に感じ,自発的に拠出する形を採っていた。だが実態は強制的な課税であり,株仲間は頻繁に値下げを願い出るのが常であった。