天保の改革の株仲間政策

 老中・田沼意次(在位1767〜1786年)の時代になると,株仲間政策は,政治の中心課題となっていた。大坂を中心に増え続ける株仲間を田沼は次々に公認し,政権末期の大坂では,約130の問屋株仲間が公認されていた。これには,二つの側面がある。
 一つは,冥加金の大増収による幕府財政の安定である。しかもそれは,貨幣による増収であった。直接税である年貢は米だが,間接税である冥加金は貨幣である。この時期には,幕府といえども,貨幣なくしては公共事業も動かせない貨幣経済社会となっていた。商人からの間接税の徴収強化は必然的な流れであった。
 もう一つは,地方商人の統制である。公認された株仲間の数が多いのに比して,個々の冥加金は安い。必ずしも税収目当てだけの政策とは言いきれない。特徴的なのは,かつて度重なる御触書によって否定されたはずの摂津・河内・和泉の搾油業の株仲間が,堂々と公認されている点である。幕府の完全な路線転換は天保期のことだが,田沼は既に,地方を株仲間の管理下に置くことで,江戸や大坂同様,幕府の統制の及ぶ存在とし,全国的に商工業を奨励する路線を採っていた。幕府は株仲間を通して上意を個々の商家に伝え,個々の意思もまた,仲間の決定となることによって幕府に伝わった。両者の関係は,全体的にはうまくいっていたようである。また株仲間は新規加入の扱いを厳しく吟味すると同時に,既存の構成員でも,道楽者や怠け者の跡取りを厳しく審査し,排除した。これは個々の私事への介入とは見なされず,仲間全体の存亡にかかわる重大事と認識されていた。
 冥加金経済が発展する中で,両替商がカをつけていった。特に江戸と大坂の間で交わされる為替の業務を幕府から請け負った御為替請負人と呼ばれる両替商は,冥加金の送金に当たり,儲けを得た。中でも三井三家と,文化13年(1816年)の御為替請負人改組以降重きを成した小野善助・島田八郎右衛門は,幕府政権下での実績が物を言い,明治新政府にも重用されて発展を続けた。
 時代が下り,天保期を迎えた頃には,幕藩体制が構造的な行き詰まりを迎えていた。貨幣経済が行き渡る過程で農民に貧富の差が生じ,農村では過疎化が進行し,下層農民が都市に流れ込んでいた。都市の新下層民の多くはまともな職に就けず,無宿人と化して,社会不安を増大させていた。そんな時代背景の中で,天保の大飢饉が発生する。この飢饉は天保元年から同8年(1830〜1837年)まで続き,東北地方では人を殺して食い合うほどの惨状を呈した。天明の大飢饉(1782〜1787年)の時も同じような惨状だったが,当時よりも物資の流通が進み,全国経済が成り立っていたために,東北・関東地方の飢饉が全国に飢餓をもたらした。都市でも農村でも米価と諸物価が高騰し,下層階級の生活を困窮させた。その結果,天保7年(1836年)には各地で大規模一揆が発生し,翌8年には,大坂で大塩平八郎の乱が発生した。そのような状況の中,老中・水野忠邦は,大胆な政治改革に踏み切った。いわゆる天保の改革である。
 水野の目的は,幕府の絶対権力を強化し,農村と商業を直接的に統制することにあった。そのために都市の商人に御用金の調達を命令し,粗悪な天保通宝を発行した。人返しの法で都市に流入した農民を村に強制送還もした。
 そして政策の目玉は,株仲間の解散である。大塩平八郎の乱の動機が物価の高騰だったことを,幕府は深刻に受け止めていた。水野を動かしたのは,御三家の一人,水戸の徳川斉昭であった。斉昭は水野に書状を送り,十組問屋を名指しで非難して,物価高騰の元凶である問屋仲間を解散させよと迫った。水野はこの意見を容れ,改革の初年度,天保12年に,最優先課題として株仲間停止令を施行したのである。
 この時期,江戸と大坂の油問屋は,幕府の方針転挽に右往左往する事になる。水野の老中就任に先立つこと2年前の天保3年(1832年),幕府は明和の仕法を全面撤回して,大坂の特権停止・江戸一極集中政策を採った。すなわち大坂とその周辺以外の搾油業を公認し,摂津・河内・和泉・播磨の油の江戸への直送を奨励した。同時に,江戸周辺の地廻りの油の増産を進めた。
 そして天保12年12月13日,江戸町中の問屋,仲買,小売など全ての株札が全廃され,「問屋」の名称を用いることが禁止された。「商売は何人も勝手次第たるべし」とされ,素人の新規参入,完全自由化が実施されたのである。
 当時の問屋仲間は,業界の利益擁護団体として,談合によって販売価格を決定し,新規参入を妨げる一面もあった。だが物価の高騰は必ずしも問屋仲間のせいではなく,貨幣の改悪や,料金滞納による大坂の商品出し惜しみなどが当時の官僚によって指摘されていた。そして,あまりにも極端な同業者組合否定政策は,市場に大混乱をもたらした。
 まず株を担保とする金融が停止したので,問屋の代金回収は事実上不可能になり,不良債権が莫大な金額となって,問屋の商売がまったく成り立たなくなった。かくして市場は機能しなくなり,未曾有の大不況が訪れたのである。また長年の信用と経験を必要とする商売では,素人の新規参入が成功せず,水野が意図した自由競争による物価引き下げは虚しく瓦解した。この時初めて,為政者と世間は,問屋・流通機構の繁栄なくして健全な経済社会は成り立ちえないことに気付いたのである。水野の性急な改革は,あらゆる階級の猛反発を招き,大奥にも睨まれて,天保14年(1843年),水野は老中を辞任し,天保の改革はわずか3年間で幕を閉じたのであった。天保の改革は,貨幣経済・全国経済が発達し,石高制の土台が揺らいでいく中で,武士の側からの商人に対する最後の抵抗だったと言われている。

 水野に代わって老中首座に就いたのが,阿部正弘である。弘化2年(1845年),水野が減封の上蟄居となり,その影響力が完全に排除された。これを好機と見た南北両町奉行・遠山左衛門尉景元は,実権を手にした阿部に,株仲間の復興を建議した。だが役目上,庶民の経済的疲弊を熟知していた“遠山の金さん”と,幕府の財政優先の上層部では意識のずれがあり,この時は却下された。しかし翌弘化3年,前南町奉行・筒井紀伊守正憲が,「御府内窮民救助」対策として,諸問屋の再興を求める建白書を提出した。現職と前職の町奉行からの相次ぐ要求に,幕閣も事の重大さを認識し,阿部は遠山に,諸問屋再興の可否を調査し,その対策を講ずるように命じた。
 遠山は慎重に時間をかけて調査に当たり,嘉永元年(1848年)4月,上申書を提出した。その表書には,『諸問屋株式再興之儀に付見込之趣申上候書付』とあり,遠山の並々ならぬ意気込みを伺わせる。中には,世の中を明るくするためには問屋の再興を図ることが大切だと記されていた。上申書には,筒井の意見書と町年寄・館市右衛門の意見書も付されていた。館の算定した株の評価では,水油問屋21人は,塩仲買問屋,下り酒問屋,紙問屋などとともに最高水準の五百両位とされており,水油問屋の勢力がわかる。遠山は,同年9月にも同様の意見書を提出,株仲間禁止の結果,資金融通が停滞する一方,物価は下がらなかったとの見解を示した。
 これを受けて幕府はさらに吟味の結果,嘉永4年(1851年),問屋再興令を施行した。株仲間停止からちょうど10年が経過していた。しかしこれは,あくまでも問屋再興令であって,けっして株仲間再興令ではなかった。
 その内容は,政策の失敗を認めた上で,問屋仲間の再結成を命じている。ただし,株札は交付せず,冥加金上納の必要もない。さらに,仲間への新規加入の希望者は必ず受け入れ,理由なく拒んではならないとしている。停止令以前にあった問屋は本組(古組),その後開業したものは仮組として組織された。これは,株仲間が本来持っていた独占機能を無力化するもので,幕府は新興の商人に恩を売ることで,旧勢力を統制しようと図っていた。
 その後,安政4年(1857年)には,冥加金上納の復活と,本組・仮組を合併して株札を与える改正令が施行されたが,新規加入を自由とする政策は変更されなかった。
 それでも,顔ぶれはかなり入れ代わったが,水油問屋を初めとする諸問屋の仲間が復活した意味は大きい。明治以降に活躍する問屋の多くは,この時期に源流を持つ。問屋仲間の再興に長い間尽力した遠山景元は,問屋の恩人と言われている。
 だが,遠山や筒井が強く願っていた経済の復興は,問屋の復活によって叶うことはなかった。幕府も商人も予想しなかった未曾有の事態が,日本を根本から変えようとしていた。