油関係の古文書

 江戸時代には,農業や手工業の飛躍的な発達に伴い,これら産業の歴史や技術を記した書物が,数多く発行された。油に関する書物で後世に伝わったものは数えるほどしかないが,内容の水準は高く,当時の油事情を知る上で,貴重な資料となっている。中でも最も基本的な資料として多くの研究書に引用されているのが,『搾油濫觴』,『清油明鑑』,『製油録』の3点である。おおまかにいうと,『搾油濫觴』は製油の起源と歴史を説き,『清油明鑑』は大坂の油問屋の記録を中心に記し,『製油録』は,搾油の工程など製油法の実態を,図表などを利用しつつ,具体的かつ詳細に解説している。


 『搾油濫觴』は,文化7年(1810年),衢(ちまた)垂兵衛によって書かれた。濫觴とは,物事の始まりを意味する言葉である。践文によれば,著者は,この書を著すに当たり,大山崎離宮八幡宮と住吉大社の秘蔵の古記録や国書など信頼できる資料だけを使い,根拠のない俗書の類は用いず,疑わしいことは国史の専門家や博物学者に開いて正した。また著者は,執筆の目的は,昔の事を好む人のために書いたのではなく,搾油業には起源と歴史という「本」があって,「永世不易ノ基」となっていることを知ってもらうためだとしている。
 この記念誌の中で,古代の油についての記述,及び大山崎と遠里小野に関する章は,多くを『搾油濫觴』に負っている。
 『清油明鑑』は,正徳5年(1716年),大坂の油問屋,浅井快住によって書かれた。題の明鑑は,製油業者の明るく立派な手本となることを意図したものと考えられる。自序によると,「油は灯火のために必要なもので,身分の上下を問わず公平に用いてきたものである。製油業の家では,<滓濁>(にごり)を恐れ,<清明>(清らかに澄んで明らかなこと)を求めてきた」。また著者によれば,これは賢人に見せるためではなく,油問屋を家業とする人のために書いたものである。70歳に至るまでに,油問屋の昔のことを知っている人に会うたびにその由来を尋ね,過去100年余りのことを集めて書き記した。
 この記念誌の中で,大坂の油問屋の起源に関する部分,正本ため桶の作成,綿実油の改良と,それに関する争いの記述などは,『清油明鑑』に基づいている。次に記すのは,それらの章では触れられなかった記録である。
 天保3年(1683年)5月,大坂の油問屋・河内屋善衛門が,認められていない水油と白油を混ぜた油を売っていたことがわかり,詫び状を書かせた。この年9月,江戸から,油の容量が同じでないものがあるので,確かに吟味するよう要請があった。これを受け,問屋衆では油屋八郎兵衛が奔走し,正しく詰める約束を取り付けた。八郎兵衛の名は,もめごとの度に問屋を代表して派遣される人物として,しばしば登場する。
 元禄9年(1696年),油問屋は重要な職業なので,新規に問屋に参入する衆には「入口銀」を出させるのが良いという意見があり,議論になった。参入希望者に開いたところ,指図に従うとのことだったので,一人から金20両ずつを「酒手」として徴収した。
 正徳4年(1714年),江戸より,容量のばらつきが多いので,樽毎に油屋の家名の焼き印を押すように申し入れがあった。問屋衆が油屋衆に伝えたところ,油屋衆は了承しなかった。このため翌正徳5年,問屋側は初立ち会いを中止,3月まで売買が滞る異常事態となった。油絞りの職人は仕事が激減したため困窮し,訴訟を起こした。公儀は親方不届きとし,両者は和解,10軒の油屋が,焼き印を押すことに同意した。

 『製油録(せいゆうろく)』は,天保7年(1836年)に刊行された。著者の大蔵永常は,全国を訪ねて研究した農政家・農学者で,著書は30冊を超える。『農家益』,『農具便利論』など農業全般に係わるものの他,菜種の栽培法を記した『油菜録』などもある。その中でも『製油録』は特に評価が高く,英訳もされている。本書では,関東・灘・大坂の菜種搾油の実態,すなわち必要な人員と賃金・経費,菜種を乾燥させるところから油を搾り上げるまでの工程,それに必要な技術・施設・道具等が,挿絵を利用しながら解説されている。搾油の採算見積もりも数字で示されている。きわめて実用的で,搾油業者,あるいはそれを志す人を読者に想定している。以下に内容の抜粋を記す。

 菜種は,西国の種子の搾油量が多いといわれるが,関東でも肥えた土地に肥料を多く施してつくった菜種の搾油率は,西国と変わらない。奥州の最も悪いところで1割7分,関東と九州の最も良いところで2割5分ほどである。
 胡麻の搾油率は1割7,8分から2割5,6分,荏胡麻が1割5分から1割9分である。
 搾油の採算の見当は,すべて油粕の代金を諸経費に当てる。これはどこの国でも変わることがない。ただし,菜種の良し悪しによる値段の高低によって,また搾油率の良し悪しによって,一石当たりの有利不利は出てくる。
 大坂の搾り油屋は,寄り合いには良い着物を着て,下僕を連れて行くが,家に帰ると古い刺子の筒袖を着て縄帯を締め,下働きの雇い人に混じって働く。雇い人に任せておいても粗相はないが,油屋というものは,その主人が槌で打つことまでしなければ,採算は取れない。
 菜種は炒り方が非常に難しい。関東や西国では,炒りすぎて狐色にしてしまうが,大坂や灘では,それより大いに「若く」炒っている。この理由は,種の中には小さな未熟な粒がある。これを炒りすぎると,焦げすぎて,油気が抜けてしまい,粒は炭となって品質を損なう。
 蒸した粉を立木で搾る時には,関東では打つ間に二度も休むが,大坂では一気に打ち切ってしまう。
 油を搾る道具は,多く大坂で製作され,諸国に売られている。地方によっては,ただ臼,立木,炒り鍋,桶類,蒸し窯,袋だけはその地方で作って用いることもある。だが立木の場合,欅で作ると材質が柔らかいので早く壊れてしまう。大坂には,樫屋といって,樫ばかり扱う職人がいる。紀州熊野や日向あたりから樫を取り寄せて,数年乾燥させてから用いるので,材質が良い。油を搾る諸国へ道具を運送する時は,だいたい船が使われる。