為替会社に油問屋も出資

 明治政府は明治2年6月,「通商会社」に金融的基盤を与えるという目的で,通商司の下に「為替会社」を創立した。この組織も株式会社という形がとられ,富商の資力を糾合して経済の血液にしようというもので,「銀行の性格を具え,紙幣発行の特権を有する金融機関」と定義された。東京,横浜,京都,大阪,神戸,新潟などの各地に設立されたが,東京為替株式会社への身元金(出資金)リストには,油関係の問屋も,呉服,両替,木綿などの名だたる大店と並んで顔を出している(「江戸明治大正史 日本橋界隈の問屋と街」白石孝著)。
 和泉屋三郎兵衛(鰯粕魚油),久住・久住五左衛門(鰯粕魚油),松居屋松尾太七(水油),駿河屋北村喜平治(水油)が各30万両,大坂屋松澤孫八(蝋油)が5.5万両,水戸屋田辺治郎右衛門(鰯粕魚油)が4.5万両の身元金(出資金)をそれぞれ出資している。こうしたことからも,当時の油問屋の力が並々ならぬものであったことが分かる。
 しかし,この為替会社も,貿易商社と同様,政府の積極的な肝入りで成立したもので,創業企業の持つパワーに欠けていたものと推測される。ちなみに為替会社は,明治5年11月に国立銀行条例が公布され為替会社の紙幣発行特権が奪われたことなどにより,明治6年3月に解散している。