油の消費が急速に減少

 明治に入ってから,江戸時代に隆盛だった油の需要は急速に減少することとなった。明治14年に東京府が編纂した「東京諸問屋沿革史」(巻二)には,“維新前後の景況”として次のように記述されている。--- 「往時は水油類は広く諸藩邸の求需および一般の供用多数にして,1ケ年輸入高およそ10万樽と概算せしものなりしか,維新以降需要者の減少せしと,年1年石油輸入増加せしとに因て,輸入高1年4万樽内外に減少せり」---
  油の最大用途であった灯火用が,行灯からランプへと変わるに従って菜種油や庶民が使った魚油から石油へと需要が変化していったのである。しかし油の需要が減少したのは一時的なもので,産業機械や軍隊で使用する車両等の潤滑油としての需要が急速に伸び,さらに食用用途が増え灯火用の減少を補ってあまりある状況となったのである。それでも菜種油生産量が増加し始め,明治元年水準(26万6,000石・「第10次農商務統計表」。なお,明治22年以前の統計は過少に集計されていると同統計表の中で注記されている)まで戻るのは明治30年前後(明治28年の菜種油生産量は22万1,000石で明治30年に27万7,000石を記録している)のことである。そして菜種油の灯火需要が石油に取って代わられた明治前半期は,江戸時代からの伝統的な油問屋には最初の試練となり,生き残れた問屋はほとんどが時代の変化に対応して石油も取り扱い商品に加えたところであった。
 菜種油の復権は食用用途の増大によってなされた。江戸から明治にかけて膨大なグルメ日記を残し,食通として名高い斉藤月琴の編著による「武江年表」の付録に“近き頃世に行はるもの”として“天ぷら屋”が挙げられており,「近頃これを商ふ店,次第に増したり」と書かれている。明治6年のことであ
る。江戸時代に屋台のファーストフードとして普及した天ぷらが明治に入り地位を高め,天ぷらの専門店が賑わいを見せ始めたことを示している。
 その後少し時間が経過しているが,「明治の東京生活 女性の書いた明治の日記」(小林重喜編著)には,明治31年当時の状況として「油の需要が多いから,油を計り売りする油屋が,いつも町を流していた。油をこぼすことが多いので,前半身を覆う前掛けを掛けていた。幼児などの前掛けを『油屋さん』とか『あぶちゃん』とか呼ぶことがあるが,それから来ている」と述べられている。ここに書かれている“油”が,石油のことなのか“食用油”のことなのかは定かでない。
 いずれにしろ,明治に入って油脂の需要は一時減少し,その後は食用としての用途が増えるという道筋を辿った。