加工問屋として精製も行う

 江戸時代に日本の油脂業界をリードしてきた大阪(明治元年5月に大坂から大阪に変更)の勢いは,明治になってからも衰えることを知らず,依然として日本の中心的な位置を占め続けていた。ことに大阪の油問屋は,その強大なカによって油脂産業の発展を支えていた。春に収穫される菜種を栽培農家から買い入れる資金,絞油業者への支払い,生産された油の在庫費用など,油問屋の資金力なしにはいずれも成し得ないものであった。
大阪の油問屋のカを支えていたのが,大坂,摂津,河内など周辺における全国から一等抜きんでた水油(菜種油)の生産力である。
 明治元年における大阪の油問屋は次のようであった。
 京口問屋3,江戸口問屋6,出油問屋12,油仲買211,油小売310,魚油・蝋燭仲間13,草木絞油問屋・仲買6,菜種・綿実両種物問屋仲間39,菜種絞油仲間116が存在した。
 東京の問屋が主として仕込問屋として油の売買だけを行ったのに対して,大阪の油問屋は絞油・精製業者と密接な関係を持つと同時に,自ら精製を行うなど加工問屋の色彩を色濃く持っていた。店のたたずまいもかなり異なっていたようだ。大阪の油問屋(京口問屋,江戸口問屋,出油問屋)は,絞油問屋から購入した油を,現在でいうところの精製・充填まで行い出荷していた。したがつて,大阪の油問屋には大壷がいくつも店の中に置かれていた。板の間の下に大壷を並べ,板をめくっては上ずみを柄杓ですくうというのが当時の精製法だった。
 油問屋の庭先や店の隅で精製が行われる一方,精製だけを専門にやる「いらず屋」という商売も登場した。油問屋から粗油を預かり,精製だけを専門にやる精製の下請けである。堺や河内など菜種の産地や絞油屋に隣接して,かなりの軒数が散在しており,大阪市内にも5,6軒あった。
 とはいっても,この時代の精製は粗油に石灰を混ぜて焚くといった程度のことで,化成ソーダによる精製法が完成されたのは,明治41年のことである。
 日清戦争の勃発によって,機械の潤滑油や鉄の焼き入れ油にするため精製度の高い白絞油の需要が一気に増えたが,“いらず屋”の能力だけではそれに対応仕切れず,大阪では油問屋自から本格的な精製事業に取り組むところも出始めた。当時,油問屋内にあった精製用の釜に,棒で油の中に入れた石灰をよく混ぜるため攪拝していた丁稚が落ちて,人間天ぷらになるといった事故も起きたという(「吉原定治郎翁伝 油ひとすじ」平野成子著)。
 東京では,笹屋・荻原利右衛門(初代)が小石川区林町に油脂の精製工場を設立て,菜種白絞油の精製と充缶を行っていた。笹屋は“角三”の手印を月間約5,000缶売り捌いたといわれている。