大阪の油取引市場の変遷

明治に入ってから,大阪における油の取引市場が記録に出てくるのは,明治4年からになる。明治4(1871)年4月,大阪府の中の島にあった通商司内に為替会社が設立され,同構内に開商社がおかれ,油相庭(相場),および限月約定油の相売買が始められた。これが,いわゆる“油相庭会所”である。
 この油相庭会所は,堂島にある米相場に習い,油から徐々に他の商品も扱う予定で始まったが,結果的に油以外の商品の売買は成立しなかった。
 当時の相庭会所における取引は,油10樽(4石)につき,金一歩を徴収し,このうち半朱は納税し,一朱は仲買の口銭,残りの一朱半は開商社に収めるというものであった。
 明治5年10月に仲買商社180人が各10両を出し合って開商社に預け,この資金が相庭会所の運営資金,予備資金として使われた。この間明治5年12月に旧暦が太陽暦に改められ,明治5年12月3日をもって,明治6年1月1日と決められた。
 日を追って油の売買は盛んとなったが,6年3月に大蔵省(井上馨大蔵大輔)は,堂島米会所への合併を決め,油相庭会所は廃せられることとなった。
堂島米相庭会所は油粕庭会所を吸収合併し,改めて米油相庭会所として出発することとなった。
この時,仲買人の身元金とし50円を収めることとされ,ちなみに売買手数料は油10樽につき,金25銭とされた。これらのお金はすべて官納され,会所費用として米には年間7,000円,油には3,500円が支給された。