始まった大豆の搾油

 大豆搾油が始まるのは日清戦争後の明治30年代以降のことだ。わが国における豆粕製造(大豆油は当時副産物だった)は明治34年から始まった。豆粕は肥料として使われた。福井県敦賀港の大和田製油所が大豆の圧搾を始めたのが,嚆矢だという。明治38年には井上寅次郎が兵庫に開設し,その後次々と大豆搾 油会社が名乗りを上げた。珍しいところでは,日本リーパブラザーズ(株)が明治40年から兵庫県大庄村において圧搾法で1目処理50トンの工場を立ち上げている。
 日清製油(株)の前身となった松下商店の豆粕製造所は,明治43年に横浜高島町で開始した。その後,高島町は鉄道院に買収され,その替え地として,東神奈川地先の横浜倉庫会社の埋め立て地約5,000坪を買取り,ここに移転した。
 一方,日清戦争での勝利により,中国大陸への進出の足がかりを得たわが国政府は,大豆の産地である満州,大連などへの企業誘致を積極的に推進した。
 日清豆粕製造の大連工場は,明治41年に大連工場が操業を開始している。その後松下豆粕製造所と合併し発展の基礎を築いた。
 (株)ホーネンコーポレーションは,満鉄中央試験所製油試験工場から始まった。満鉄はドイツからベンゼン抽出法の特許を得て抽出工場を建設した。大正5年に製油工場を民間の鈴木商店に払い下げ,鈴木商店製油部は大連工場に続き内地において清水,鳴尾,横浜に相次いで大豆抽出工場を建設した。その後,第一次大戦後の不況の波に抗することができず,鈴木商店は製油事業の分離独立を決め,豊年製油(株)が設立された。
 日華油脂は大正6年,日本綿花(株)(現ニチメン(株))と三菱合資会社(現三菱商事(株))の共同出資により日華製油(株)として発足したもので,東京市に本店,中国の漢口に支店と工場を開設した。
 このように大豆を原料とする製油工場のほとんどは,中国から輸入される大豆を原料にスタートしている。明治の後半に始まったわが国の大豆搾油事業は大正時代に花開くこととなる。商工省の統計によると,大正2年の菜種油生産量20万8,907トンに対して大豆油は3万8,399トンとまだ大きな差があったが,大正5年にはナタネの24万9,966トンに対して大豆油は11万9,615トンに追い上げ,大正12年にはナタネ18万5,208トン,大豆油18万1,755トンと肉薄している。
 大豆油が菜種油と肩を並べたことは,わが国の製油事業の大阪優位が崩れることを意味し,同時に製油事業が手工業的な生産段階から大工業へと脱皮しはじめたことを表している。
 この間,搾油技術も飛躍的に進歩し,圧搾機は玉絞め,丸板絞め,板絞めからケージプレスヘと進展し,動力も人力から水力,そして電力へとパワーアップした。また大豆搾油が始まると同時に,油分の少ない大豆から効率的に油を取り出すために溶剤を使った抽出技術が生み出された。そして,生産効率を上げるために,やがてバッジ式から連続抽出へと搾油技術は進歩していく。