水運網の整備

江戸は武家地が60%,寺社地が20%を占め,町屋は残りの僅か20%に押し込められた。従って幕府は, 諸大名・旗本などの膨大な生活消費財を賄い,また 初期には,江戸城などの造築に必要な資材の荷場 や人夫達に生活物資を供給する必要があった。 
 大都市・江戸の人口を養うためには,米の大増産が急務であった。わが国における治水・潅漑事業は, 中世を通じて各領主の下で行われていたが,徳川幕府にとって,それは基幹事業の一つであり,大規模 な計画が進められた。初代将軍・徳川家康は,天正18年(1590年)の江戸入府と同時に,利根川水系の 大規模改修工事に着手した。その中核を成した大工事が,利根川の瀬替えであった。  
 それまでの利根川の自然の流れは,江戸湾(東京湾)に注いでいた。銚子に注いでいたのは鬼怒川であった。 幕府は,寛永10〜11年(1633〜1634年)のいわゆる天下普請によって,関宿付近で利根川を,鬼怒川の支流の 常陸川に分けさせた。これにより,利根川は今日見られるような,銚子に河口を持つ川となったのである。 同時に荒川を西にずらし,江戸川も開削した。現在の安定し た関東平野は,元は荒川,利根川,渡良瀬川の 洪水に常時さらされていた不毛 の低湿地で,幕府のカで豊かな水田地帯に変えられたのであった。 
 関東水脈の要というべき葛西用水は,利根川の瀬替えと並行して,利根川や荒川の元の通り道を利用してつく られた。葛西用水の利根川からの取水口は昭和43年(1968年)まで,約300年間使用された。 もう一つの要, 見沼代用水は,享保12年(1727年)に開削された。工事には, 八代将軍書宗が紀州から連れてきた井沢為永が 当たった。この用水は,見沼を干拓し,まったく新しい水路を開削してつくったもので,幹線水路だけで9仙 に及ぶ大工事を,わずか半年で完成させた。これは,予算と人手もさることながら,技術力の進歩に負うところが大きい。「伏越」と呼ばれる立体交差の技術などは,基本的には今日まで変わらない。そして見沼代用水は,先行の葛西 用水と組み合わせる形で,江戸の水田を潤していった。  
 治水事業には,水の確保以外にも,重要な目的があった。一つは洪水の防止であり,もう一つ,より重視されて いたのが,水運網の整備である。家康が直ちに開発した,江戸〜行徳間の小名木川運河は,全国規模の海運網と, 関東の河川交通を初めて合体したものであった。そして利根川の瀬替えによって,利根川と鬼怒川が一体化した。 当時の帆船の水準では,東北沖を南下してきた船 が房総半島を回って直接江戸湾に入るのは困難であった。 そこで,いったん下田に寄って風待ちするか,あるいは銚子で下ろして,河川と陸路を併用して江戸へ行くか, いずれにしても効率の悪い方法を強いられていた。それゆえに,銚子から利根川に入って江戸へ向かう水路の 開通は画期的なことであった。船が定期的に運航するためには,港の整備も欠かせない。慶長11年(1606 年)の江戸城改築時には,諸大名に命じて,諸国から巨木大石を運ばせたので,海上交通が発展するきっかけと なった。さらに慶長16年(1611年)には大規模な港湾工事を行い,江戸湊は京橋地区まで延長された。『往古江戸地図』によ れば,江戸横付近を中心として日本橋川筋,京橋川筋,楓川筋が江戸湊の内港 を成していた。このうち日本橋川筋は,日本橋川,伊勢町掘留町人掘,箱崎川 浜町掘,薬研掘,霊岸橋川,小網町北から元大坂町に達する掘などから成っていた。
 元和6年(1620年),浅草は蔵前に幕府の米蔵が建てられ,この地に大坂をはじめ全国から送られた米が集まった。物資を荷揚げする場所は河岸と呼ばれ, おおよそ商品毎に河岸の場所が決まっていた。鰹河岸,米河岸,材木河岸などのほか呉服町,木綿町,金物町小間物町など商業の街が形成されている。 
 江戸の街は火事が多く,しかも町人は「宵越しの銭は持たぬ」ことを美風としていたので平時の蓄えに乏しく,火事が大工や職人の増収をもたらし・景気 浮揚につながる一面があった。中でも明暦の大火(1657年)は,根本的な都市計画の実施につながった。万治3年(1660年)には,隅田川に両国橋が架けられ,その周辺に運河を掘り,道をつけて新市街地とし,以後,物資流通の要となったのである。