菱垣廻船と樽廻船

 海運をめぐる事情も,江戸時代に入ると,鎖国により事情は大きく変わった。慶長14年(1608年),幕府は,西国の諸大名に対し,500石以上の軍船の建造を禁じた。この禁令は,実質的には民間の船にも及び,三代将軍・家光の代には,船といえば,帆柱一本の和船に限られた。
 しかし鎖国はしても,国内物流の大型化は進行したので,幕府も商船については大型化を徐々に認めることとなり,1000石を超える船も生まれた。
 大坂と江戸を結ぶ航路のために開発されたのが,菱垣廻船である。菱垣という名は・舷側を高くするための構造物である「垣立(かきだつ)」の一部が菱形になっているところから付けられた。この菱形は,江戸十組問屋所属の廻船であることを示すものであった。船の構造そのものは,菱垣廻船も樽廻船も,「弁才船」と呼ばれる普通の大和型和船で,両者の間に新著な相違は見られなかった。船の規模は200〜300石積みのものが多かった。弁才船は瀬戸内海で発達した船で,木綿の帆を採用することで逆風走行を可能にし,少ない乗員での航行を実現して,運賃の引き下げに貢献した。
 菱垣廻船の誕生は,江戸時代の初期,元和5年(1619年)の事であった。泉州堺の船問屋某が,紀州富田浦から250石積みの廻船を借り受け,大坂から木綿・油・綿・酒・酢・醤油などの商品を積み込んで江戸に送った。これを発端として,廻船の定期就航への道が開けた。寛永元年(1624年)には,大坂北浜の泉谷平衡門が江戸積船問屋を開業し,続いて同4年(1627年)には,毛馬屋,富田屋,大津屋・荒屋傾屋),塩屋の5軒が開店して,ここに菱垣廻船の運航は独立した業種として確立したのである。廻船問屋は,手船を所有する例もあったが・多くの場合・最初の堺の船問屋のように,紀州や大坂周辺などの船持の廻船を雇い入れて営業していた。
 港湾の整備と並んで大切なのが,航路の開拓である。幕府は,東廻り航路と西廻り航路の開拓にカを入れた。東廻り航路とは,日本海沿岸から出発し,津軽海峡から太平洋に抜けて南下し,房総半島を迂回して江戸に至る海路である。西廻り航路とは,日本海沿岸を西に向かい,赤間ケ閑(下関)から瀬戸内海に入り,兵庫・大坂に寄港して紀伊半島を迂回し,遠州灘から下田を回って江戸に着く海路を指す。いずれも,以前から部分的かつ不定期的には,航行が行われていたが,江戸時代に入ってからは,仙台藩が慶長・元和年間には,江戸に大量の米を廻送していた。
   寛文10年(1670年),幕府は,江戸の商人,河村瑞賢に,陸奥国信夫郡桑折・福島などの幕領米数万石の江戸への廻送を命じた。瑞賢は綿密な調査を行って幕府に必要な処置を建議し,諸施設を整備した上で東廻り航路で廻送に当たり,翌寛文11年,無事に成功させた。さらに寛文12年,幕府は瑞賢に,出羽国の幕領米を江戸に送ることを命じた。瑞賢は,前回同様,調査と整備を念入りに行い,年内に西廻り航路で全ての廻送を終えた。
 瑞賢が行った海運改革の一番の特徴は,それまでの商人請負方式を廃止し,幕府の直雇方式を採用した点であった。これで運賃を圧縮できる反面,事故があった時は,全て幕府の負担となる。それゆえに,瑞賢は諸施設の整備を急いだ。各拠点に安全施設を設けて,諸侯と代官を,船の保護に当たらせ,西国の弁才船を採用したのである。かくして全国を網羅する安全な航路が確立し,本格的な廻船の時代が幕を開けた。


 これに先立つ正保期(1644〜1647年)に,大坂の西の伝法の船が,伊丹の酒を積んで江戸に送る商売を始め,万治元年(1658年)には,伝法船の船問屋が出来た。そして河村瑞賢によって東廻、・や,西廻り航路が開拓された寛文11,12年頃には,伊丹の造り酒屋の後援により,伝法船は大いに栄え,酒の他に酢・醤油・塗り物・紙・木綿・金物・畳表などの荒荷(雑貨品)も積み合わせて出荷していた。酒樽は重量があるので下積みとし,上に荒荷を乗せた。酒樽は大きさを四斗樽に統一したので,積み込みが速く,伝法船は300〜400石積みの廻船で,仕立てに日数がかからない上に船足が速いので,「小早」と呼ばれた。これが次第に発展して,後に樽廻船と呼ばれるようになった。
 白嘉納家文書によれば,元禄13年から同15年(1700〜1702年)までの3年間で,江戸湊に入津した廻船は約1,300艘,1年間に1艘が5往復すると仮定すれば,約260艘の廻船が営業していたことになる。