東京油問屋市場の前身誕生

  江戸においても,大坂に歩調を合わせるように,問屋が増えつつあった。寛永年間(1624〜1644年)初期に,大伝馬町に4軒の木綿問屋が開業した。彼らはいずれも,町年寄や伝馬行司を務めた初期の特権商人であった。続く慶安年間(1648〜1652年)には,まだ問屋,あるいは仲間と称するものの急激な増加は見られず,商家といえば小売商が多かった。問屋が相次いで誕生したのは,明暦の大火(1657年)以後のことである○江戸城の本丸さえ焼失したこの大惨事により,江戸では物資が極端に不足し,今までのように,小売店がその都度大坂から取り寄せるやり方では追いつかなくなった。それが,一度に大量の品物を購入して,各小売店に配分する問屋の誕生を促した。大火があったのは1月のことで,この年の9月の江戸町触には既に.材木問屋・米問屋・薪問屋・炭問屋・竹問屋・油問屋・塩問屋・茶問屋・酒醤油問屋などが記載されている。
 油問屋も,大火の後,大坂からの下り油が減少し,価格が高騰したことで軒数が増え,大口の仕入れが目立つようになった。寛永元年(1615年)頃から大坂・江戸間を定期的に就航していた菱垣廻船は,この時期,江戸への物資の運送に欠かせなくなっていた。万治年間(1658〜61年)には,陸上輸送の輸送量を上回っていたのである。
 そして万治3年(1660年),江戸は霊巖島に「油仲間寄合所」が設立され,大坂からの下り油の売買所と定められた。東京油問屋市場の前身の誕生である。今年(2000年)から数えて,ちょうど340年前のことだ。その後,油仲間寄合所は,油会所,油売買所などと改称された。
 当時の油の取り引きは,現物売買が普通であったが,限月を定めての延べ売りも行われていた。問屋の仕入れの方法には,「送り込み」と「買い出し」とがあった。送り込みとは,荷主の裁量もしくは問屋の注文を待って,荷主から問屋に送る。買い出しとは,問屋が自ら産地に出張して,もしくは中継ぎ人に依頼して,その場で契約して仕入れる。主な産品は送り込みによるものが多く,油も送り込み中心であった。問屋が力をつけ,複数の荷主からの売り込みを待った方が有利な契約が出来たためである。江戸の問屋は,荷主に対しても小売りに対しても強い立場となり,やがて十組問屋という強力な仲間組織を結成するに至る。