関東大震災と油一間屋

 大正12年9月1日に起きた関東大震災(マグニチュード7.9)は未曾有の災害を東京にもたらしたが,油問屋にも多大な影響を与えた。東京における油問屋の地図が一変したといっても過言ではない。
 大震災の起きたのが9月だったことも油問屋にとっては不運であった。春に収穫される菜種は夏場に搾油され,9月という時期はちょうどナタネ油が出回る旬の時期で,各油問屋は大量のナタネ油を仕入れるのを常としていた。大豆油はまだ認知を受けているとはいいがたく,ナタネ油に匹敵する食用油がなく,ナタネ油が暴落する危険はほとんどなかった。逆に年末からの端境期には値上がりすることが常であったので,沢山仕入れれば仕入れるほど儲けも大きくなり,資金力と在庫能力のある問屋は腹一杯仕入れた。
 そのため,油問屋が受けた打撃は極めて大きかった。多くの問屋が在庫を失うとともに,取引先の罹災により売掛金の回収ができなくなるなど大きな被害を受けた。
 江戸時代から続いていた最大手の油問屋大孫商店は,「2万箱(1斗缶4万缶)の在庫を一瞬のうちに消失した。
 カク石・駿河屋喜平次商店も江戸時代からの大店で,大正時代には代が替わり駿河屋藤田金之助商店となっていたが,やはり大震災で大きな被害を受けた。当時倉庫は満杯で,伊勢水や摂津製油の菜種油,あるいはローソクなどを全て消失した。このカク石全滅の報せを受けた摂津製油では,直ちにゴマ油,菜種油を本船で送り,油が貯で日本銀行わきの銭瓶橋に荷揚げされた。同業者や仲買は争ってこの油を購入し,カク石は再建されたとの話が伝わっている。
 京橋霊岸町のカネカ・伊勢屋鈴木嘉助商店は,2,000箱(4,000缶)の油を倉庫に入れていた。火災は免れたが,箱が地震で崩れ落ち缶から油が洩れ出し,倉庫内に深さ45cmの油の池ができてしまったという。
大きな損害を受けたものの,多くの問屋は震災後時を経ずして仮建設で開店にこぎつけた。一方で,受けた被害が余りにも大きく,このため閉店に追い込まれる問屋や,支配人に営業権を譲って引退する営業人が輩出した。大手問屋の実力が著しく後退したのは否めず,一方で小売や仲買,あるいは中小問屋で被害が少なかったところは,震災を転機にぐんぐんカを付けていった。地方からの新たな参入も続いた。
  現在の東京油問屋市場の有力営業人には,関東大震災で幸運にも被災を免れたか,被災が最小限に止まったところ,あるいは震災後に東京に進出したところ,そして震災後に営業を開始したところが多くを占めている。