塗り替わった油岡屋の地図

 関東大震災で幸運にも被害が少なく,逆にこれを機にカをつけ,大間屋への道をまっしぐらに進んだところもある。館野栄吉商店は震災の起きる前年3月から豊年製油の大豆油販売を開始したが,このことが震災後の復旧にカを発揮することとなった。創業99年を記念して館野がまとめた「白寿の履歴書」では,当時の状況について以下のようにまとめている。

「震災に依り関東一円の植物油(食用)は罹災在庫払底を来した処,館野栄吉(2代目)店主の英断により大豆油200屯(12,000缶)を豊年製油清水工場より帆船にて急送。原価に近い価格で販売し東京の食糧危機救済の一端を担うと共に,之れが契機となって従来市場で白眼視されていた大豆油普及の端緒となる」

池田屋商店の山崎権治郎も思い出を語っている。

「胡麻油が非常によく売れるので店の古い人に沢山の現金を持たせ,岩井製油や岩槻の製油工場に,遠くは福島県桑折の日ノ丸製油にまで胡麻油を買いに出しました。荷が到着を待ち切れないように,油は飛ぶように売れました。遠く神奈川の保土ヶ谷あたりから車を引っ張って,胡麻油を取りにきた油屋さんもありました」(「走馬燈」山崎権治郎述)

また,地方の有力問屋が震災後の東京に油を供給すると同時に,東京に店を出し地盤を作るという動きも活発になった。
 甲府の財閥であった穴水嘉三郎商店(明治5年創業)は,石油の将来性に着目して大きな需要を期待できる東京への進出を図った。震災の翌年,穴水要七社長(後に貴族院議員)の弟穴水嘉三郎が芝新掘町に東京支店を開設,日本石油の特約店となる。穴水徳五郎は昭和12年3代目を継ぎ,宝製油(味の素)の大豆油を扱う東京第1号店となった。昭和33年より(株)穴水商店となる。
  酒井金次郎商店は明治12年創業,大正12年に2代目が営業権を引き継ぎ酒井幸吉商店を創立した。この頃から豊年製油,スタンダード石油の代理店となり昭和27年より油市場建値委員長として標準建値設定と公正な運営に努力,業界の指針として評価された。昭和42年,3代目酒井廣の時に(株)大釿に改称。