製油事業には4つのパターン

 わが国の製油会社は4つのパターンに分けることができる。1つは,関西・四日市周辺で古くから菜種やゴマ搾油を行ってきた伝統型(菜種搾油の熊沢製油,吉原製油,摂津製油。綿実搾油の岡村製油,そして胡麻搾油の竹本油脂,かどや製油,岩井の胡麻油,九鬼産業など),2つめは明治から大正にかけて中国の大豆を原料に操業を開始した大豆型(日清製油,ホーネンコーポレーション,日華油脂など),3つめは他の事業から油脂へと事業を拡大してきた新規参入型(味の素,昭和産業など),4つめが戦後の混乱期・統制時代にスタートした新興型(リノール油脂,ニツコー製油など)である。
 伝統型,大豆型各社のスタートは前に触れた通りである。ここでは新規参入型と新興型の各社について触れたい。
 味の素(株)は本業のグルタミン酸ソーダ「味の素」の原料として,脱脂大豆を利用することを目的に搾油事業を開始した。同社の看板商品であるグルタミン酸ソーダ(味の素)は当初小麦粉を原料に生産していたが,原料の安定供給を図るため,脱脂大豆から生産する製法の研究を行い,昭和8年に実用化に成功した。当初は他社から脱脂大豆を購入していたが,その後,原料転換が本格化するに伴い価格と品質を考えて,自給方式に切り換えることとした。搾油を開始するに当たっては最新式のドイツ製の抽出機を入れ,昭和10年3月に搾油事業の子会社として宝製油(株)を設立した。搾油工場は同年10月に完成し,翌11年4月から操業を開始した。操業当初は関税の安い満州産の荏胡麻油を輸入して原料にした。その後,昭和14年に横浜工場を新設し,味の素の生産を賄えることを前提に年産8万トン(脱脂大豆)という規模の年産能力とした(「味の素株式会社社史」より)。
 昭和産業(株)は昭和11年に肥料,小麦粉,動植物油脂の製造販売を目的に設立され,同年8月に赤塚工場が完硬し菜種油の生産を開始したとされているが,同社の前身である日本加里工業(株)は昭和5年に相模製油所を吸収して日本製油肥料(株)を設立し,胡麻油と菜種油の生産を開始している(「昭和産業60年の軌跡」より)。
 リノール油脂は,東浜一行がその前身である東浜油脂(株)を昭和22年に長野県豊野に設立したのが始まりとなっている。その後昭和30年代に,日本経済が高度成長期へと向かう中で,油脂原料が輸入大豆・菜種へと大きく変化して行くのに対応し,昭和36年,名古屋の埋め立て工業コンビナートに名古屋工場を建設し,8大メーカーに数えられる大手製油会社に脱皮した。その過程で三菱商事(株)の資本参入を仰ぎ,最終的に三菱商事60%,日活製油40%という出資比率となり現在に至っている(「リノール油脂五十年の歩み」より)。
 不二製油(株)は昭和25年に設立されているが,その前に不二蚕糸としての4年間の歴史がある。不二蚕糸の経営不振から,独自の搾油事業の道を目指していた大阪工場が独立し,伊藤忠商事の出資を得て,不二製油(株)として独立したもの。当初は大豆をはじめコーンや米糠の搾油も行ったが,やがてヤシ油やバーム油といった南方系の油脂を中心に据えた商品戦略で独自の道を歩きはじめる。「人まねはしない」という決意がその方針を支えたのである。
 ニッコー製油(株)は,昭和55年に,丸紅(株)と日清製油の資本で設立された。前身の日本興油は朝鮮でコメ油事業を行っていた田淵貞治が,岡山県に設立した日本糠油が始まりで,26年に赤沢亀四郎が会長に就任するとともに,コメ油から撤退し大豆と菜種の搾油に転換するとともに名称も日本興油に変更した。
 ボーソー油脂は戦前に朝鮮・仁川でコメ油事業を行っていた直野良平が,昭和22年12月に房総油脂工業を設立したもの。
 こめ油の老舗東京油脂工業は昭和13年,一松政二によって設立され,わが国初の食用こめ油となった「米の油」は今でも同社のブランドとして生きている。
 和油脂は昭和24年,東京油脂を退社した坂倉信雄が村山裕太郎,松田孝太郎とともに設立したもので,3人の和を大切にする意味で三和油脂と名付けた。